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  • 1.天才画家の誕生(絵:科学と慈愛)

    パブロ・ピカソは1881年、スペインのマラガという町で生まれました。マラガは闘牛でよく知られた町です。
    ピカソが8歳の時に描いた闘牛の絵は今日まで残っているピカソの絵のうちで最も古いものです。
    10歳のピカソは絵の先生をしていたお父さんに絵を習い始めると、すぐに様々な技法を身に付けました。
    13歳になろうとしていたある日のこと、ピカソの才能を見抜いたお父さんは絵を描くのは止め、自分の持っていた絵具を全てピカソに与えました。
    14歳になったピカソはお父さんの勤めるバルセロナの美術学校に入学します。他の生徒が1ヵ月かけて仕上げる入学試験の絵を1日で仕上げて先生達を驚かせました。
    16歳のときに描いた「科学と慈愛」(1897年)はスペインで数々の賞をとり、ピカソが画家として初めて認められた記念すべき絵画です。画面の左に座っているお医者さんはお父さんをモデルにしています。
    絵の画像はこちらのリンクからご覧ください。

    おはなし名画「ピカソ」の紹介記事

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    (1998/12)
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    2.親友カサジェマス(絵:粗末な食事)

    ピカソはさらに勉強を重ねるためにマドリードの美術学校に入学しました。
    ところがピカソは学校へは行かずに美術館にばかり通っていました。怒ったお父さんにお金を送ってもらえなくなったピカソは苦しい生活をしなくてはならなくなりました。
    やがてバルセロナに戻ったピカソはカルロス・カサジェマスという画家と親しくなり、19歳になると一緒に芸術の都パリへ向かいます。
    ピカソは毎日のように美術館や画廊にでかけて熱心に絵を見てまわりました。特にセザンヌの絵には強く心を惹かれました。
    「セザンヌは僕の先生だった。何年もの間、僕はセザンヌの絵を研究したものだ」ピカソは後にこう語っています。
    20歳になったピカソはパリの人々の暮らしを絵に描いて初めての個展を開くことに成功しました。

    リンクの絵は「粗末な食事」(1904年)です。
    1904年と言えば後に始まる「青の時代」とその後にやってくる「ばら色の時代」の移行期辺りですね。
    痩せこけた盲目の男性と健常と思われる女性が殆ど何も置かれていない机に座っています。マドリードでの苦しい生活を思い出して描いたのでしょうか?
    絵の画像はこちらのリンクからご覧ください。

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    3.青の時代(絵:悲劇)

    ピカソの人生に突然、悲しい出来事が起こります。
    一緒にパリに出てきた親友のカサジェマスがわずか20歳で自殺してしまったのです。ピカソの心は悲しみに覆われました。
    それから3年もの間、ピカソの描く絵はまるで深い悲しみを表すかのように青い色で包まれていました。
    この頃のピカソの作品を後の人々は「青の時代」と呼んでいます。

    リンクの絵は「人生」(1903年)です。青の時代を象徴する作品の一つですね。
    青は英語で「憂鬱、陰気」などを意味しますが、この絵を見ているとそのことを感覚的に理解できるような気がします。
    北斎やフェルメールのブルーとは対極的な陰鬱なブルーです。
    絵の画像はこちらのリンクからご覧ください。

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    4.ばら色の時代(絵:玉乗りの少女)

    23歳になったピカソは美しい女性に出会います。彼女の名前はフェルナンド・オリヴィエ。22歳でした。
    愛し合うようになった二人は一緒に暮らし始めます。やがてピカソの絵は次第に明るさを取り戻します。
    「ばら色の時代」の始まりです。
    この頃、ピカソの周りには多くの友人が集まるようになっていました。
    詩人のアポリネール、画家のアンリ・ルソーやマリー・ローランサンらがピカソのアトリエ「選択船」に集まり、時を忘れて芸術について語り合いました。大好きなサーカスにもよく出かけました。
    後に一緒に新しい絵の描き方を研究するブラックと出会ったのもこの頃です。

    リンクの絵は「玉乗りの少女」(1905年)です。
    逞しい肉体の男性と細い女性が色々な意味で対比的に描かれています。絵全体としては抑制されているというか、侘しさのようなものを感じます。
    常に新しい表現を模索していたピカソの実験的な作品だったのではないかという気がします。
    絵の画像はこちらのリンクからご覧ください。

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    5.新しい芸術(絵:アヴィニョンの娘たち)

    1907年7月のことです。何百回という下書きを繰り返した後、ピカソは一枚の大きな絵を完成させました。
    20世紀現代アートに絶大な影響を与えた「アヴィニョンの娘たち」です。
    ピカソは最初、この絵に「アヴィニョンの売春宿」というタイトルを付けました。(「子どものための」美術全集のおはなし名画にはこんなことは書かれていませんのでご安心ください^^)
    ヨーロッパの絵画の流れから逸脱したこの絵は多くの議論を巻き起こし、ピカソの親しい友人たちにも怒りを買ったり、否定されたりしました。
    「アヴィニョンの娘たち」というタイトルはそのインパクトを薄めるために名付けられました。(ピカソは気に入っていなかったそうです)
    ピカソは美しいと信じられてきたものを見事に壊し、新しい美しさを作り出して世の中に示したのです。当時はその新しさを理解できない人が多かったため、この絵は9年間もの間、ピカソのアトリエの壁に立てかけられていました。
    絵の画像はこちらのリンクからご覧ください。

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    6.キュビズム(絵:オルタ・デ・エブロの工場)

    27歳のころから友人のブラックと一緒に描いていたピカソの絵は物や人をバラバラに分解し、点と線を使ってキャンバスの上でそれを新たに作り直したかのように見えます。
    生涯にわたってピカソの友人でありライバルであったマティスが「まるでキューブのような絵だ」と言ったことからブラックやピカソが用いたこの手法は「キュビズム」と呼ばれるようになります。
    この頃、ピカソの絵を見て「何を描いているかさっぱり分からない」という人たちにピカソはこんなことを言っています。
    「人はなぜ絵画を理解したがるのだろう。誰も小鳥の歌を理解しようとは思わない。草木や花を理解しようとせずに愛せるのに、なぜ絵画となると人々は理解したがるのだろう」
    リンクの絵は「オルタ・デ・エブロの工場」(1909年)。キュビズムの手法を用いて描かれた風景画として有名です。
    絵の画像はこちらのリンクからご覧ください。

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    7.別れと出会い(絵:肘掛椅子に座るオルガ)

    この頃、ピカソの人生には再び悲しい出来事が起こりました。
    6年間一緒に暮らしたオリヴィエとの別れ、そしてそのあとに出会った恋人エヴァの死です。エヴァはピカソと知り合ってから僅か4年で病気のために亡くなってしまったのです。
    悲しみに暮れるピカソを元気づけようとある友人がピカソにバレーの舞台や衣裳を作る仕事を頼みました。1917年、そのバレー公演のためにローマを訪れたピカソは一人の女性に目を留めました。
    ロシアからやってきたバレリーナ、オルガ・コクローヴァです。ピカソはオルガに結婚を申し込み、パリに住むことにしました。ピカソが37歳のとこです。4年後には息子のパウロが生まれ、ピカソは幸せな家庭を築きました。

    リンクの絵は「肘掛椅子に座るオルガ」(1917年)です。溜息が出るほど綺麗な絵です。
    誇り高きオルガはキュビズム風に変形して描かれるのを嫌ったそうです。
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    8.新しい表現の追求(絵:鏡の前の少女)

    世間にも認められ、絵も高く売れるようになったピカソですが、新しい表現を追求し続けます。
    「何か表現したいことがあるときはあ僕は自分のやり方でやる」
    ページをめくるように、ピカソの絵は時とともに変わっていきます。

    リンクの絵は「鏡の前の少女」(1932年)です。モデルはピカソが50歳のときに出会ったマリー・テレーゼです。
    この絵でピカソが表現したかったものは何なのでしょう。見れば見るほど不思議な絵です。
    妊娠しているのであろう少女の二つ顔は何を意味しているのか。鏡の中の少女が老婆なのはなぜなのか。
    「なぜ人は絵を理解したがるのか。小鳥のさえずりや草花を理解せずに愛せるのに」
    ピカソの言葉が改めて思い起こされます^^。色遣いが鮮やかですね。
    絵の画像はこちらのリンクからご覧ください。

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    9.戦争への怒り(絵:ゲルニカ)

    ピカソが生きた時代はそれほど平和な時代ではありませんでした。
    1936年にはスペインでも戦争が起こり、ゲルニカという小さな町がめちゃくちゃに破壊されてしまいます。
    56歳のときに描かれた「ゲルニカ」(1934年)には戦争に反対するピカソの激しい怒りが表れています。
    戦争の悲惨さや苦しみを絵を描いた縦349㌢×横776.6㌢という巨大なこの絵は評判を呼び、ピカソの意図した通り、スペインの内乱に世界の目が向けられました。
    ジョン・レノンが歌で反戦を訴えたように、ピカソは絵で反戦を訴えていたのですね。
    ピカソが91歳で亡くなった1973年はヴェトナム戦争が終わった年でもあります。

    世を去る直前まで絵に対する情熱を燃やし続けたピカソは、亡くなる数年前に子どもの絵の展覧会を見てこう語りました。
    「この年頃には私はルネッサンスの天才たちのように正確に上手に絵を描くことができた。でも、この子どもたちのように書けるようになるには一生かかった」
    ゲルニカ
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