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    1.激しい批判と中傷(絵:草の上の昼食)

    マネは1832年、パリに生まれます。
    法務省の高官だったお父さんはマネにも自分と同じ道を進んで欲しいと願いましたが、マネは勉強が大嫌いでした。
    中学卒業後、人々に認められる立派な画家になることを条件にマネは絵の道に進ことを許されます。
    この約束がマネの呪縛になったのかもしれません。マネは印象派画家たちの指導者的な役割を果たしながらも、世間体を気にしたのか、印象派展への出展を拒み続けました。

    マネは絵の学校に6年間通ったあと、外国を旅しながら絵の勉強を重ねました。そして、自分の目で見た人々や生活の様子を好きな色を使って活き活きと描きました。
    ところがマネの絵はなかなか認められません。
    中でも1863年、サロンに落選した絵を集めて行われた落選展にマネが出した「草の上の昼食」は多くの人を驚かせました。古典の構図を引用してセーヌ川で水遊びをする人たちを描いていますが、「神話」という言い訳のない生身の裸体は急進的すぎたのでしょう。
    また、慎みのない視線を鑑賞者に投げかける女性は娼婦を連想させました。
    この絵は不道徳で破廉恥だとして、激しい批判と中傷に晒されてしまいます。
    マネ
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    2.更なる物議の先に(絵:オリンピア)

    「草の上の昼食」に続いて発表した「オリンピア」でマネは更なる物議を醸してしまいます。
    西洋絵画の伝統的なヌードを現代風に書き直したこの作品ではヴィーナスの代わりにパリの高級娼婦がベットに横たわっています。絵画は高貴であるべきだった時代に、社会の現実、しかも影の部分を描いたこの絵は人々の怒りを買いました。
    マネが愛好した浮世絵の影響を思わせる輪郭線のはっきりした平面的な絵の描き方も受け入れられませんでした。

    サロンに認められることを渇望しつつも自分の信じる道を貫き通す頑固なパリジャンだったのでしょう。どんなに悪口を言われてもマネは自分の絵に自身を持っていました。
    そして、マネの絵を見て、その素晴らしさ、新しさに気付いた人たちもいます。
    後の印象派の巨匠モネもその一人です。モネはマネの「草の上の昼食」に感動してからずっとマネを尊敬し続け、それに対しマネは8歳下の貧しいモネを色々な面で助けました。
    マネ
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    3.印象派誕生の主催者(絵:笛を吹く少年)

    「オリンピア」に続いて発表した「笛を吹く少年」には更に浮世絵の影響が色濃く出ています。
    絵から奥行きを消し去ったようなこの作品は、ルネッサンス以来、三次元性の表現を重視してきた西洋絵画に見慣れた人々の目には奇妙に映ったのでしょう。この絵もサロンでは散々悪口を言われ、落選します。

    そんな中、マネを擁護し賞賛したのが画家のエミール・ゾラです。
    「マネもマネを褒める私も今は人から笑われているが、二人とも必ず勝つだろう」
    1868年、マネが36歳のとき、ゾラを描いた「エミール・ゾラの肖像」はサロンに入選します。この絵の背景には浮世絵や琳派を思わせる屏風が飾られています。

    この頃から近代都市パリの「今」を新しい手法で描くマネの周りに、進歩的な芸術家たちが集まるようになります。
    社交的で資産家、洗練された都会人でもあるマネは第1回の印象派展開催時にはプロデューサー的な役割も果たしています。ただし、マネ自身は印象派展には作品を出していません。マネにとってはサロンこそが作品を世に問う場だったのでしょう。
    サロンの権威失墜につながる運動に手を貸しながらサロンでの評価に拘り続けたマネの心のうちは如何なるものだったのでしょう。
    マネ
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    4.バティニョール派(絵:バルコニー)

    マネはパリのカフェで仲間達と日夜議論を交わすようになります。
    カフェがバティニョール街にあったことから彼らは「バティニョール派」と呼ばれました。ここには後の印象派の核となるメンバーが沢山いました。
    「草の上の昼食」に感動して以来、マネを尊敬していたモネ、モネと仲の良いルノワール、マネと同じ生粋のパリジャンで同じような階級出身のドガもいました。
    いわゆる印象派っぽい絵を描いていないドガが彼らと一緒に行動していたこと(それ故にドガを印象派の一員としてカウントすることがあること)に違和感があったのですが、マネを通じて印象派画家たちと仲間になったのだと知って、何となく納得しました。
    マネは歴史画家を目指していたドガに自分と同じように現代生活を描くようにアドバイスもしています。

    数少ない印象派の女性画家ベルト・モリゾも仲間の一人でした。マネはモリゾをモデルにして沢山の絵を描きました。
    「エミール・ゾラ」の肖像に続いてサロンに入選した「バルコニー」にもモリゾが描かれています。
    正装してバルコニーから通りを見物している彼女らの姿も急速に近代化するパリの「今」を象徴しているのでしょう。それが豊かさなのか人間関係の希薄さなのか、人によって感じ方が違うかもしれません。
    モリゾの強い意思を持った美しい目と、使っている色が少ない中、白が印象的な作品です。
    マネ
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    5.最晩年の傑作(絵:フォリー・ベルジェールの酒場)

    ゾラが言った通り、マネは少しづつ人々から認められるようになっていきました。
    ところが、その喜びも束の間、マネの左足が動かなくなります。病気による壊疽が進む中、力を振り絞って描いたのが「フォリー・ベルジェールの酒場」です。女性の鏡の写り方等、現実にはあり得ない構図ですが、マネは男性と話している彼女の虚ろな表情を描きたかったのでしょう。
    並べられた酒瓶が彼女も同様に商品だったことを暗示しているとの解説もあります。
    実際、このバーは売春婦がたむろしていた場所でもあり、ここで働く女性が身体を売ることもあったそうです。

    この絵はサロンに出した最後の作品です。近代化するパリの現実を切り取ったマネの集大成という以上のもの感じます。マネの新しい絵の世界が始まることを予感させる作品です。
    しかし、残念なことにこの僅か1年後、足の病気が治らずに苦しみながら亡くなってしまいます。51年というあまりにも短い一生でした。
    マネ
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