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  • 1.農村に生まれて(絵:ばれいしょ植え)

    ジャン・フランソワ・ミレーは1814年10月、ノルマンディー地方の海の見える小さな村に9人兄弟の長男として生まれました。
    ミレーの家は農業を営んでいましたが、親戚には神父や学者が沢山いました。
    お父さんは教会の合唱隊の指揮をしており、一緒に暮らしていたおばあさんもとても信仰の篤い人でした。
    ミレーは小学校を卒業すると農業の手伝いをする傍ら、教会でラテン語を学び、沢山の本を読みました。

    ミレーが19歳になったとき、ミレーの才能に気付いていたお父さんは絵を習うことを薦めました。ミレーは村から17キロほど離れた港町で絵の基礎を習い始めました。しかし、その2年後、お父さんは亡くなってしまいます。
    村に戻ったミレーはお父さんの代わりに農業をやらなくてはならないと思い、画家になるのを諦めようとしました。それを止めたのはおばあさんでした。
    「お父さんはお前が自分の道を進むのを望んでいたよ。お父さんの願いは神様の思し召しです」
    絵の勉強に打ち込んだミレーはパリの国立美術学校に入学することになります。22歳のときのことです。

    写真は「ばれいしょ植え」。1861年頃の作品です。
    ミレー
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    2.パリの貧しい画学生(絵:グリュシーの鵞鳥番の少女)

    ミレーが国立美術学校に入学した頃のパリは、凱旋門やシャンゼリゼ通りが出来たばかりで、通りは賑わい、馬車が行き交い、夜は遅くまでガス燈が輝いていました。
    名作「レ・ミゼラブル」の頃のパリです。市民がブルジョワジーとして台頭し、絵画が王侯貴族から彼らの手に移る中で、その対象も神話や聖書の世界から現代を生きる人々の生活に変わりつつある、そんな流れをミレーは先頭に立って切り開いていくことになります。

    当時のパリは道路も狭く、空気も汚れ、ノルマンディの自然に慣れたミレーはがっかりしたそうです。ミレーは毎日美術館に通い、巨匠の模写を繰り返しました。
    食べることも満足にできない貧乏のなか、ミレーは1840年、26歳のときにサロンに入賞して画家としての歩みを始めます。当時はサロンの権威が絶対的だったのです。

    ミレーは27歳のとき、ポリーヌという女性と結婚しますが、ポリーヌは貧乏な暮らしの中で病気になり23歳の若さで亡くなってしまいます。
    ポリーヌをうしなったミレーは1845年に故郷のグリュシー村に帰ります。おばあさんとお母さんは優しくミレーを迎えました。
    「フランソワ、誰のためでもない、神様のために描きなさい」
    こう言っておばあさんは励ましてくれました。
    故郷の明るい風景が次第に、ミレーの心を癒してくれました。

    写真は「グリュシーの鵞鳥番の少女」です。
    ミレー
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    3.バルビゾンへ!(絵:テオドール・ルソー「フォンテーヌブローの森のはずれ、日没」)

    生涯ミレーを愛し続け、苦労をともにしたカトリーヌと巡り合ったのもこの頃でした。
    ミレーはカトリーヌとともに再びパリで暮らし始めますが、生活は相変わらず苦しいものでした。
    この頃からミレーは汗を流して働く人や農民の姿を描くことが多くなりました。そして、1846年に「箕をふるう人」がサロンに入選しました。
    このとき、この絵を褒めてくれたテオドール・ルソーはその後、ミレーの良き理解者となり、貧しいミレーを助け続けました。

    ミレーは1849年にカトリーヌと3人の子どもたちを連れてルソーの住むバルビゾンに移りました。
    バルビゾンはパリから南へ60キロのところにある農村でフォンテーヌブローの森につながっています。
    ルソーはこの森が大好きで、この森の美しさを描いた絵を沢山残しています。
    この頃のバルビゾンにはパリから自然を描きにやってくる画家たちが後を絶ちませんでした。都市化が進み、自然が失われていく中で、人々は絵の中に自然を求めたのでしょう。彼らは今では「バルビゾン派」の画家と呼ばれています。ルソーやミレー、コローもその一人です。

    「西洋絵画においては『歴史画』が常に上位におかれ、風景画は一段落ちるジャンルと見なされていた。フランスにおいて本格的な風景画が描かれ、歴史上の物語の背景などではない現実の風景そのものが芸術的表現の主題となるには、19世紀前半のバルビゾン派の登場を待たねばならなかった。」(ウィキペディアより)

    写真はテオドール・ルソーの「フォンテーヌブローの森のはずれ、日没」です。
    テオドール・ルソー
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    4.力強い一歩(絵:種をまく人)

    バルビゾンの住民は木こりや農民で、彼らは朝早くから夕方太陽が沈むまで働いていました。
    男も女も休む暇もなく労働に追われていましたが、神と大地の恵みに感謝と祈りを忘れませんでした。
    朝、彼らが畑へ出る頃にミレーも絵の具を持って出かけ、彼らが仕事を終えるとミレーも家路につきました。
    そしてこの村で描いた初めての大きな絵「種をまく人」は1850年のサロンに入選しました。

    大またで歩きながら種をまこうとしている農夫を画面いっぱいに大きく描いたこの絵は、多くの人々を驚かせました。こんなに堂々とした無名の農民の姿を描いた画家は初めてだったのです。
    子どもの頃に農作業を手伝ったミレーならではの見上げるような視点です。力強さとともに、ミレーの農夫の労働に対する感謝と尊敬の念が伝わってくるようです。
    後にゴッホもこの絵に感動して何度も模写しています。

    この絵で画家として力強く踏み出したもののミレーの貧しさは相変わらずで、おばあさんの死の知らせを受けても、その2年後にお母さんが亡くなったときも旅費がないために村に帰れませんでした。
    バルビゾンでミレーが借りた家は3部屋しかない粗末な石造りの家でしたが、その後、子どもが9人になったので部屋を継ぎ足し、アトリエも作りました。
    貧しい中で一心に制作に励んだミレーは徐々に農民を描く画家として知られるようになります。
    ミレー
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    5.賞賛と批判(絵:落ち穂拾い)

    当時のフランスは貴族やお金持ちと農民や労働者が対立し、パリの市街で何度も大きな暴動が起こっていました。
    このような不安定な政情のもと、農民や労働者を描くミレーを危険視する人たちもいました。
    また、当時のサロンの審査員や批評家は西洋絵画の伝統である歴史や聖書の解釈やその視覚化に芸術的な価値を見出していたため、身近な人々の姿を描いたミレーの絵を嫌う人も多かったのです。
    ミレーが43歳のときに描いた「落ち穂拾い」も、当時は賛否両論を巻き起こしました。

    空間の広がり、透明感のある色使いや色彩の調和、女性たちのひたむきさや気高さが印象的です。
    この絵は「おはなし名画」にも掲載されていますが、絵の説明は殆どないので「落ち穂拾い」の正確な意味は知りませんでした^^;
    当時は貧しい人たちのためにわざと落ち穂を残しておくという習慣があったそうです。この3人の女性たちは収穫が終わったばかりの畑でその落ち穂を一本ずつ拾い集めているのです。
    遠方では農場の主人と男たちが二輪馬車にあり余る麦の束を載せ、積み藁を作っています。貧しい女性たちのコントラストとして彼らを描いたというよりは単なる遠景の一部という気もしますが・・・。

    今では世界中の人々が知っているミレーの代表作の一つです。
    ミレー
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    6.信仰と労働を描いた農民画家(絵:晩鐘)

    「落ち穂拾い」の2年後、45歳のときにミレーは「晩鐘」を描いています。
    この絵にはミレーの子どものころの思い出が込められています。
    家族で畑仕事をしているとき、教会から夕方の鐘の音が聞こえてくると、おばあさんはミレーに帽子を取ってお祈りするように教えたのです。
    教会の鐘の音を絵を観る人に聞かせたいというミレーの思いが伝わってきます。

    懸命な労働と敬虔な祈りを描いたミレーの絵はプロテスタント大国のアメリカで最初に人気が出ます。
    後の印象派の画家たちの作品もまずアメリカで売れ始め、パリに逆輸入されたのと似ていて面白いです。
    伝統と格式を重んじるが故に権威や既得権益に縛られた老大国フランスとそれに取って代わろうとする若きエネルギーに溢れた新興国アメリカの違いなのでしょうか。
    ミレー
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    7.成功(絵:羊飼いの少女)

    ミレーの代表作である「落ち穂拾い」や「晩鐘」は発表当時、批評家たちの賛否が大きく分かれました。
    ミレーを嫌う人たちは厳しい批判や攻撃を浴びせました。それでもミレーは自分の信じる道を貫きました。
    そして、ミレーが1863年に「羊飼いの少女」を発表すると、この絵は大絶賛を浴びました。この絵を貶す人は誰もいないほどの、議論の余地のない成功をミレーにもたらしたのです。

    貧しい農民の厳しい労働を描いてきたミレーですが、この絵の少女は優雅な美しさを漂わせています。
    足元の草花も丁寧に描かれていて、ミレーのこの絵に対する愛情を感じます。
    編み物をする少女、草を食む羊達、見張る番犬、地平線に向かって広がる草原、雲からこぼれる夕焼けの光。全てが1枚のカンヴァスの中で調和しています。

    ミレーの絵はだんだん売れるようになり、人々からも認められるようになりました。
    ミレー
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    8.晩年(絵:ガチョウ番の少女)

    写真は1867年に発表した「鵞鳥番の少女」です。好きな絵の一つです。
    ミレーはこの絵について「鵞鳥の声が画面一杯に響き渡るように描きたかった」と友人に送った手紙に書いています。懸命に働く人々を描いてきたミレーですが、この絵では鵞鳥が主役で、少女は自然の一部として風景に溶け込んでいます。自然と動物と人間が調和した世界を描こうとしたのでしょう。
    この頃のミレーの絵には動物を主役にしたものが多くなっています。

    評価が高まりつつあったミレーですが、56歳のころ(1870年頃)から身体を悪くし、徐々に絵を描くのも難しくなっていきます。
    1875年1月の元旦にはこんな事件も起きています。
    突然、銃声と猟犬の吠える声がして、高熱で寝ていたミレーが起きてしまいます。猟師に追われた一頭の雌鹿が隣の家の庭に逃げ込んできたのです。この鹿は首を切られて殺されました。ミレーは大変心を痛めました。
    「これは前兆だ。この可愛そうな鹿は私がもうじき死ぬことを告げに来たに違いない」
    この言葉の通り、この月の20日、ミレーは息を引き取りました。
    ミレーの死にパリの画家たちは涙に咽び、かつてのようにミレーを批判する人たちはいませんでした。
    ミレー
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