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  • 1.鶏で学ぶ(絵:動植綵絵『南天雄鶏図』)

    伊藤若冲は1716年、京都の錦小路にある大きな青物問屋の長男として生まれました。
    23歳のときお父さんが亡くなって後を継ぎますが、40歳のときに店を弟に譲り、絵を描くことに専念します。

    若い時から先生について絵の基本を習ったり、中国の絵画を写したりして勉強しましたが、一番描きたかったのは身近な動物や植物でした。
    若冲は勉強のために庭に数十羽も鶏を飼い、その動きや表情、身体の形や色の違い、羽一枚一枚を細かく観察して毎日、鶏の絵を描きました。

    若冲はたちまち京都でも最も人気の高い画家になりますが、中でも親しかった大典和尚のお寺に納めるために描いた「動植綵絵」という30枚の絵は有名です。
    若冲は43歳の頃から焼く10年かけてこれらの絵を描きあげました。
    光琳
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    2.平和な日々(絵:果蔬涅槃図)

    動植綵絵を描いた後の4年間を若冲は錦小路市場を取り壊そうとする役人との闘いに費やします。
    この間、若冲は殆ど絵を描いていません。取り壊しを免れ、平和な日々が戻ると若冲は再び絵に没頭します。

    おはなし名画シリーズ「若冲のまいごの象」の表紙にも使われている6000個もの升目に象を描いた「白象群獣図」を描いたのもこの頃です。
    スーラの点描画法の百年も前に若冲の升目描きが存在していたというのも驚きます。
    若冲は野菜や果物をモデルにした絵も沢山描いています。

    お釈迦様の死とそれを悲しむ弟子たちを描いた絵を「涅槃図」と言いますが、若冲が64歳の頃に描いた「果蔬涅槃図」(かそねはんず)では野菜や果物たちが大根の死を悲しんでいます。
    長年青物問屋を守り、この年亡くなったお母さんを想って描いたとも言われています。
    若冲
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    3.迷子の象(絵:象と鯨図屏風)

    若冲が73歳の春、京都は大火事に見舞われます。火は二日間燃え続け、京都の町の大半を焼き尽くしたと言われています。
    信仰の篤かった若冲は80歳を過ぎた頃から石峰寺というお寺の門前で妹と仲良く暮らしていました。

    その頃に描かれたのが「象と鯨図屏風」です。この絵は2009年の秋、美術館で公開され話題を呼びました。
    この屏風はそれぞれ高さ約1m60cm、横は3m54cmもありますが、それまで何処でどうしていたのかは知られていません。

    鯨の背中には背びれがあります。鯨は昔から食用にされていましたが、泳いでいるところを見た人は少なかったでしょう。
    象も可愛らしい風貌と大きい牙がファンタジックな雰囲気を醸しています。
    江戸時代にはベトナムから象がやってきて長崎から江戸まで旅をしています。その象が京都を通ったのは若冲が14歳のときです。
    若冲は本物の象も鯨も見たことはなかったのかもしれませんね。
    若冲
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    4.優しい眼差し(絵:百犬図)

    写真の「百犬図」は若冲が84歳のときに描かれました。
    若冲は小さく見えるはずの遠くの犬も大きく見えるはずの手前の犬も同じ大きさで描いています。
    じゃれ合っている犬を上から見ているようにも見えます。
    ある時、雀が売られているのを見て「焼き鳥にされては可愛そうだ」と全部買って空に放してやったという若冲の生き物に注ぐ優しい眼差しを感じます。
    若冲はこの絵を描いて間もなく85歳でこの世を去りました。
    若冲
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    1.江戸の本所に生まれる(絵:富嶽三十六景 隅田川関屋の谷)

    江戸時代が生んだ天才画家、葛飾北斎は1760年9月23日、江戸の本所、現在の墨田区亀沢あたりで生まれました。
    作品は海外でいち早く評価され、19世紀末には印象派の画家たちにも大きな影響を与えています。
    さらに驚くべきことに、北斎が残した傑作の殆どは70歳を過ぎてから89歳で亡くなるまでの間に描かれているのです。

    北斎が生まれた本所は近くに隅田川が流れ、晴れた日には富士山も見えました。北斎が生まれる前、この辺りは「本所に蚊がいないのは暮れと正月だけだ」と言われるほどじめじめと薄暗く、寂しい所だったそうで本所の七不思議と言われる昔話がいくつか残っています。

    写真は富嶽三十六景(隅田川関屋の里)です。
    北斎
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    葛飾北斎 (おはなし名画シリーズ)葛飾北斎 (おはなし名画シリーズ)
    (2006/12/01)
    小澤 弘

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    2.殆ど知られていない前半生(富嶽三十六景 御厩川岸より両国橋見)

    当時、江戸は人口百万人を有する大都市になっていました。特に隅田川に両国橋がかけられると本所、深川あたりは著しく発展しました。

    北斎は幼いころ時太郎と呼ばれ、絵を描くのが大好きな子どもでした。
    父親は徳川に仕える鏡師(鏡を作る職人)だったとも言われます。母親は忠臣蔵に出てくる吉良上野介の家来、小林平八郎の孫娘だそうです。
    14歳の頃に掘師に弟子入りし木版を掘る仕事を教わり、19歳のときに当時最も人気のあった浮世絵師に入門します。33歳のときに師匠が亡くなると、その後は琳派の絵や森羅万象を手本にひたすら絵を描き続け、39歳で初めて北斎の名を使い、46歳から葛飾北斎の号を用いています。
    この頃には絵師として名を知られ、当時の江戸で流行っていた読本の挿絵や戯画、美人画や風景画などを沢山描いています。

    写真は富嶽三十六景(御厩川岸より両国橋夕陽見)です。
    両国橋の向こうに見える富士山と夕陽、隅田川の波に揺れる小船。富嶽三十六景の中でも独特の雰囲気のある絵です。
    北斎
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    3.絵師として名を知られる(絵:富嶽三十六景 山下白雨)

    50を過ぎると弟子も増え、国中から教えを請う者たちがやってきました。
    そこで、手本絵として森羅万象を描いた「北斎漫画」を出版すると、大変な評判を呼び、本は飛ぶように売れました。
    この頃までに名前を変えること20数回、肉筆画も含めると描いた絵の数は相当なものでしたが、それでも70歳を過ぎてからのものと比べれば数も質も取るに足らないと北斎は言います。

    70歳を過ぎて幾分、自然の形と命が分かってきたと自身で言う北斎。そして描いたのが「富嶽三十六景」です。
    世界的に有名な「神奈川沖浪裏」は我が家では「波の絵」として親しまれており、長男(5歳)の大のお気に入りです^^。
    前回、前々回もご紹介したように、江戸の町から見た富士もよく描いています。

    今日の絵は「山下白雨」です。白雨とは夕立のことでこの絵は「黒富士」とも呼ばれます。
    「赤富士」とも呼ばれる「凱風快晴」(凱風とは南風のこと)と同じ構図ですが、絵から受ける印象は全く違います。
    「凱風快晴」は山肌に南風を受ける爽やかな朝の富士。
    「山下白雨」は山麓に稲妻を奔らせる夕暮れ時の富士。
    富士山の表情は実に豊かです。
    北斎
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    小澤 弘

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    4.旅先で見た富士(絵:富嶽三十六景 尾州不二見原)

    北斎は生涯で「93回転居し、日に3度ということもあった」と自ら語ったと言われています。引越しばかりでなく、たびたび長期の旅行にも出かけています。
    そして、行く先々で様々な富士を描いています。

    東海道を旅したときに相模の国梅沢のあたりで描いた「富士三十六景(相州梅沢左)」は水辺に憩う鶴、人里離れた自然の美しさが印象的です。
    「富嶽三十六景(甲州石班沢)」には日本三大急流の一つと言われる富士川の起点となる沢の早瀬で網打つ漁師が描かれています。
    「富嶽三十六景(甲州三島越)」は手前にそびえ立つ巨木の存在感が、「富嶽三十六景(駿州江尻)」には富士の山から下りてくる強い風(富士おろし)の凄まじさが描かれています。
    一生懸命働く人たちを描いた「富嶽三十六景(遠江山中)」も好きな絵です。

    写真の絵は「桶屋の富士」と呼ばれて親しまれている「富嶽三十六景(尾州不二見原)」です。
    ユニークな構図で、絵手本の中でコンパスや定規を使って絵を描く方法を図解していたという北斎ならではの作品です。
    北斎
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    5.旺盛な制作活動(絵:千絵の海 総州銚子)

    北斎が「富嶽三十六景」を描いている同じ時期、江戸の浮世絵師歌川広重の「東海道五三次」が大評判となり、広重はたちまち江戸の人気浮世絵師となっています。

    北斎も負けていません。
    落ちる水、流れる水、淀む水など水の様々な変化を捉えた8枚の滝の絵「諸国滝廻り」を「富嶽三十六景」と同時期に描き、その後には海と漁師を描いた10枚の連作「千絵の海」に取り掛かります。
    更にその後に、11の橋の絵「諸国名橋奇覧」を描いています。
    こうしてわずか4年の間に後に西洋でも有名になる風景版画を立て続けに制作したのです。

    写真の絵は「千絵の海(総州銚子)」です。銚子の荒波とそこで働く漁師の姿が描かれています。
    「富嶽三十六景(神奈川沖浪裏)」の大波にも引けをとらない荒ぶる海です。
    北斎
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    6.三女のお栄(絵:葛飾応為作 夜桜美人図)

    「わしの絵はすでに西洋でも知られるようになったようだ。
    しかし、なぜか暮らしは少しも楽にならん。これまでに住まいをかえること50回をこすだろう。あいかわらず、長屋の仮住まい。そのうえ、妻や長女には死なれてしまった。

    年老いたわしの身のまわりの世話をやいたのは、三女のお栄。この娘はとにかく気が強い。わしの弟子の一人に嫁がせたのだが、亭主の絵を下手だと指差して笑うしまつ。
    離縁されたのもしかたがあるまい。
    しかし、絵はうまかった。ことに美人画を描かせたら、わしよりうまいかもしれん。
    わしに似て、住まいもみなりも食べることにもこだわらん。だが、わしが心地よく絵を描けるようにだけは、気配りをおこたらぬ娘だ。

    せまい家でのふたりきりの暮らし、たがいに『おぅい』『おぅい』とよびあえば、おおくを語らんでもおおよそ用はたりる。そこで応為(おうい)という画号をつけた。この名で浮世絵もよく描いたものだ。」
    (北斎爺さん談 from おはなし名画シリーズ第18巻「葛飾北斎」)

    応為
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