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  • 1.ピカソとの友情(絵:オレンジのある静物)

    「彼と僕とはまるで北極と南極のようなものだ。」
    マティスはあるとき、友人ピカソのことをこんな風に話しています。
    性格や絵に対する考え方が異なるからこそ、お互いに強く惹かれあったのでしょう。
    二人の友情はマティスが84歳で亡くなるまで続きました。

    1869年に北フランスのル・カトー・カンブレジという町で生まれたマティスは幼い頃は全く絵に興味がありませんでした。
    18歳の時にお父さんの希望に従ってパリ大学の法学部に入学しました。パリに出ても絵には興味がなかったので美術館を訪ねることはありませんでした。

    写真はピカソが自分のアトリエに飾っていたマティスの「オレンジのある静物」(1913年)です。
    マティス


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    2.21歳の出発(絵:読書する女)

    マティス21歳のときに盲腸炎をこじらせて1年間入院したときにお母さんにもらった絵具で絵を描き始めます。
    そのときの気持ちをマティスはこんな風に語っています。
    「生まれて初めて自由で平和な世界へ行ったようだった。まるで天国を見たようだった」
    23歳になるとマティスは本格的に絵の勉強を始めます。そして27歳のとき展覧会に出した「読書する女」(1895年)がサロンに入賞してフランスの国に買い上げられました。
    これは若い画家マティスにとって大きな名誉でした。
    マティス



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    3.貧しい暮らしの中で(絵:帽子の女)

    29歳で結婚したとき、マティスは画家として歩き始めたばかりで暮らしは貧しいものでした。妻のアメリーが帽子の店を開いて生活を支えていました。
    そんなある日、マティスは1枚の絵に出合いました。セザンヌの「水浴する3人の女たち」です。
    「僕」もこんな絵を描きたい。この絵を自分のアトリエにおいていつも眺めていたい」
    マティスの気持ちを知ったアメリーは自分の結婚指輪を売り、そのお金をマティスに渡してその絵を買うように勧めました。
    マティスはこの絵をまるでお守りのようにずっと大切に持っていました。そして、アメリーの愛情と期待に応えようとますます一生懸命に絵を描き続けたのです。
    写真はアメリーをモデルにした「帽子の女」(1905年)です。
    帽子の女

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    4.野獣派(絵:緑のすじのある女)

    マティスはセザンヌのほかにもゴッホ、ゴーギャン、ピサロ、シニャックなど多くの画家達から影響を受けながら自分にしか描けない絵を描こうと努力を重ねました。
    1905年の秋、パリで行われた展覧会にマティスはドランなどの仲間達とともにアメリーをモデルにした「帽子の女」「緑のすじのある女」(1905年)などを出しました。
    鮮やかな色使いと荒々しいほどの力強いタッチで描かれたこれらの絵は当時の人々を驚かせました。
    これ以降、マティスたちは「野獣派(フォーヴ)」と呼ばれるようになりました。
    一方、ピカソも1907年に「アヴィニョンの娘たち」を発表して野獣派とは別の新しい絵画の流れを作っています。
    二人の天才画家マティスとピカソの時代がこうして始まったのです。
    マティス

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    5.パリの家(絵:赤のハーモニー)

    マティスが野獣のような力強いタッチで絵を描いた時期はそれほど長くはありません。
    「芸術は人に安らぎと幸せを与えるためにあるのだ」と考えていたマティスは色の調和を大切にした絵を描き始めます。
    やがてマティスの絵は多くの人々に愛されるようになり、画商たちはマティスの絵を競って買うようになりました。
    豊かになったマティすは40歳のとき、パリにアトリエのついた大きな家を建てました。
    マティスはこの家で沢山の絵を描いています。

    写真は「赤のハーモニー」(1908年)です。
    エルミタージュが京都に来たときに実物を観ましたが鮮烈な赤に圧倒されました。
    マティス
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    6.旅が好き!(絵:金魚鉢)

    マティスは一生を通じて数え切れないほど多くの旅をしています。
    イタリア、アルジェリア、ロシア、スペイン、ドイツ、42歳のときにはモロッコにも出かけています。
    モロッコでは珍しい風景や人々の暮らしに感動してそれらをテーマにした絵を沢山描きました。
    ゴーギャンの絵に惹かれてタヒチにも行きました。

    写真は「金魚鉢」(1911年)です。マティスは中国発祥の観賞魚である金魚をモティーフにして沢山の作品を描いています。旅先で出会ったのでしょうか?
    マティス
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    7.戦争の暗い影(絵:窓辺のヴァイオリニスト)

    平和な時代は終わり、マティス一家も大きな戦争に巻き込まれます。
    1914年に第一次世界大戦が始まると長男や次男、そして多くの友人も戦場に狩り出されました。
    1916年に身体を壊したマティスは戦火を逃れてニースに行きます。暖かい気候と美しい自然はマティスの心と身体を癒してくれました。
    マティスはこの地で絵を描いたり、ヴァイオリンを弾いたりして過ごしました。
    やがて戦争は終わり、平和な日々が帰ってきましたがマティスの家族が再び一緒に暮らすことはありませんでした。
    大きくなった子ども達は家を出てゆき、いつしか妻のアメリーとも心が通わなくなっていたのです。

    写真は「窓辺のヴァイオリニスト」、ニースに移った1916年の作品です。
    マティス
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    8.第二次世界大戦(絵:音楽)

    1935年、マティスは66歳のときにリディヤというロシアの女性と出会います。
    マティスはリディヤをモデルにして沢山の絵を描きました。やがて、マティスとリディヤは一緒に暮らすようになりました。
    1939年に第二次世界大戦が起こると、妻と娘のマルグリットがドイツ軍に捕らえられてしまいます。
    それでもマティスは描き続けました。
    「私は画家になってからこれまで一時も絵を描くことを止めたことはありません。9時から12時まで絵を描き、お昼ご飯を貯めたら日が暮れるまで描き続けます。勿論日曜日にも描くんです」

    写真は「音楽」(1939年)です。第一次世界大戦の間に描かれた絵と違い暗さや重苦しさはカンバスからは伝わってきません。
    マティス
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    9.車椅子の画家(絵:エジプトのカーテンのある室内)

    1941年、マティスは72歳の時に腸の病気で手術を受けます。
    とても重い病気だったので、手術が終わって自分の命が助かったことを知ったマティスは神様に深く感謝しました。
    手術の後、車椅子のままの生活をしなくてはならなくなったマティスは74歳のころから南フランスのヴァンスの別荘で暮らすようになります。
    そして、家の中にいても描ける果物や花、室内の様子などがマティスの絵の新しいテーマになりました。
    マティスの絵の色はますます冴え、今まで影は暗闇を表していた黒も「光の色」として赤や緑と並んで画面一杯に使われるようになります。
    写真は「エジプトのカーテンのある室内」(1948年)です。
    マティス



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    10.切り紙絵(作品:ブルーヌードⅡ)

    78歳になるとマティスは切り紙絵を始めます。
    紙をハサミで切って、そこに明るい色をぬり、それを壁や紙に貼り付けたのです。
    「私の絵は人々の疲れを取り、心を穏やかにできるような心地よい肘掛け椅子のようなものであって欲しい。」
    マティスが語ったとおり、その作品は今でも我々の心を楽しませてくれます。
    マティスは84歳で亡くなるまで不自由な身体で人々に夢と希望を与える切り紙絵を作り続けました。
    マティスが亡くなったことを聞いたピカソは言いました。
    「マティスは亡くなったけど、僕がマティスの仕事を引き継ぐだろう」

    写真の切り紙絵は「ブルー・ヌードⅡ」(1952年)です。亡くなる2年前の作品です。
    マティス



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