2013-03-16(Sat)

1.マネとの出合い(絵:睡蓮 @ マルモッタン美術館)

1863年、秋のことです。ある展覧会に飾られた1枚の絵の前で一人の若い青年が立ち止まりました。
「なんて明るい光、なんて明るい色なんだろう」
それは森の中でピクニックを楽しむ人たちが描かれた「草の上の昼食」という大きな絵でした。青年はあまりの感動にその場を動くことができませんでした。
絵の作者はマネ。青年の名前はのちに「睡蓮」の画家として知られるモネ。
まだ誰からも認められていない二人の偉大な画家の出合いのときでした。

写真はマルモッタン美術館にある「睡蓮」(1916~1919年)です。
画面一杯に水面が広がり、水面に浮かぶ睡蓮や水面に映る樹木が荒々しいタッチで描かれています。目を悪くした晩年に描かれた作品で、一瞬、抽象画のようにも見えます。
モネの睡蓮にかける執念を感じます。
モネ
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2.光の画家誕生の時(絵:睡蓮 @ ボストン美術館)

クロード・モネは1840年、パリに生まれました。お父さんは食料品店を経営していました。
モネが5歳のとき、一家は海のそばにあるル・アーブルという町に引っ越します。海が大好きだったモネは毎日、海辺を走り回って遊びました。
中学生になると、モネは人物をモデルにした戯画を描くことに夢中になりました。それらは地元の文房具兼額縁屋で売れるほど上手でした。
そして、その文房具兼額縁屋でモネは地元の風景画家ブータンと出会います。

アトリエでの制作が当たり前だった時代に「外光派」として活躍していたブータンは、モネを自分の戸外での制作に連れ出しました。そのとき、モネの目に映ったのは明るく降り注ぐ光と、光を受けて輝く風景でした。
「なんて美しい光!そうだ、この光を描ける画家になろう」
この日からモネは86歳で亡くなるまで「光の画家」として太陽の光に照らされた景色を描き続けました。

写真はボストン美術館にある「睡蓮」(1905年)です。
前回ご紹介したマルモッタン美術館の「睡蓮」を動とするなら、この絵は静という印象を受けます。
癒し、和み、温かみのある静けさを感じます。
モネ
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3.印象派的画法の確立(絵:ラ・グルヌイエール)

18歳になったモネは本格的に絵の勉強をするためにパリに出ました。
パリでは同じように画家を目指す沢山の友人に出会います。ルノワールもその一人です。二人は森やセーヌ川に出かけて仲良く絵を描きました。
マネの絵「草の上の昼食」に出会ったのもこの頃のことです。モネは23歳でした。
モネはこの絵に着想を得て「草の上の昼食」を描きますが、批判を受けてサロンへの出展は諦めています。ちなみに、マネの「草の上の昼食」は当初「水浴」という題名でしたが、モネから着想を得て改題しています。
翌年、やはり戸外で描いた「庭の女たち」もサロンで落選します。
画家になることに反対していたお父さんともたびたび衝突し、お金を送ってもらえなくなったモネは経済的に困窮した生活を送ることになります。

写真は1869年にモネとルノワールがセーヌ河畔の新興行楽地「ラ・グルヌイエール」をキャンバスを並べて描いた、モネの作品です。後に印象派を代表することになる二人の貧しい画家が同じ場所でほぼ同じ構図で描いた作品としても有名です。
この絵でモネとルノワールは「色彩分割法」という印象派を象徴する画法を生み出します。「戸外」で「色彩分割法」を用いて「現代生活」を描いた最初の作品です。
モネ
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4.印象派の出発(絵:印象・日の出)

苦しい生活の中で懸命に絵を描き続けるモネを見守る一人の女性がいました。それはカミーユです。
30歳のときにカミーユと結婚したモネはパリ郊外にマネの紹介で家を借り、幸せな日々を送ります。
仲間達の援助もあり、経済的にも落ち着き始めたモネの生活は1873年の世界恐慌で一変します。このことは西洋美術史にも大きな影響を与えます。

モネは保守化したサロンの代わりに自分達でグループ展を開催することを決意し、参加者集めに奔走します。
ルノワール、シスレー、ピサロ、セザンヌ、ドガなどに加え、モネを画家へと導いたブータンも、サロンの常連だったにも関わらず、モネの依頼に応じて参加します。
一方、サロンに認められ始めていたマネはドガやモネの再三の依頼を断固拒否しています。
ベルト・モリゾは師匠マネの助言に耳を貸さずに参加を決めます。マネの「バルコニー」に描かれた彼女の眼差しから窺える意志の強さは本物だったということでしょう。

30人ほどの仲間と共に1874年、モネは後に「第一回印象派展」と呼ばれる展覧会を開催します。
モネが出展した、ル・アーブルの海の夜明けを描いた「印象・日の出」は散々馬鹿にされました。
「こんなものは絵とは呼べない。ただの印象にすぎない」
当時の批評家がこの絵を批判するために使った「印象」という言葉が世間に広まり、モネと仲間達は「印象派」と呼ばれるようになります。
「印象・日の出」は印象派の画家たちの出発を告げる絵になったのです。
印象・日の出
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5.カミーユの早すぎる死(絵:日傘をさす女)

印象派展はその後も毎年のように開かれ、モネも次々に作品を出しました。モネの絵は少しずつですが、売れるようになりました。
写真は第二回目の印象派展に出した「日傘をさす女」です。長男のジャンを連れてそよ風にヴェールの裾をなびかせながらモネを振り返るカミーユが描かれています。ちぎれて流れる白い雲、草の緑はカミーユの白いドレスに映っているかのようです。

「クロード・モネは眼の人である。あの眼こそモネのすべてだ」
セザンヌがモネを評して言った言葉です。
「僕がしてきたことは目の前にあるものをただ見つめることだけだった」
これは亡くなる直前のモネの言葉です。

「日傘をさす女」は太陽の光に包まれたカミーユの姿を「モネの眼」が捉えた印象派らしい作品です。「光の画家」モネの真骨頂とも言えるでしょう。モネ一家の幸せな暮らしぶりが伝わってきます。
ところが、カミーユは1879年、32歳の若さで亡くなってしまいます。モネが39歳のときのことです。
モネ(日傘をさす女)
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6.その後の印象派展とモネ(絵:サン・ドニ街、1878年6月30日の祭日)

印象派展は1886年までの12年間に計8回開催されました。モネは最初の4回と7回目に出展しました。
少しずつ彼らの名が知られ始めるのと同時にサロンの権威は低下し、画商による個展も開かれるようになります。モネも1880年に最初の個展を開いています。
印象派展がその役割を終える頃には後にグループ内での意見の対立も目立つようになり、「ポスト印象派」や「新印象派」と呼ばれる若い画家たちも台頭しています。モネは革新でも前衛でもなくなっていました。
絵画を取り巻く環境は大きく変わったのです。

丁度、この頃、モネの人気がアメリカで火が着き、このことはモネに経済的な成功をもたらします。
恵まれた生活ができるようになったモネは人口300人ほどの小さな村ジヴェルニーの川の畔に新しい家を建て、そこに日本風庭園を造成しました。
そして52歳のとき子どもたちの面倒を見てくれていたアリスと幸せな結婚をします。その頃からモネは庭の池に咲いている睡蓮の花を描くようになりました。

写真は「サン・ドニ街、1878年6月30日の祭日」(1878年)です。
1889年のパリ万博の折に建築されたエッフェル塔に象徴されるように、1800年代後半のパリは大改造計画の最中にありました。現在のパリの原型はこの時期に作られました。
モネの荒々しく素早いタッチから当時のパリのうなるような熱気が伝わってきます。
モネ
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7.晩年の睡蓮連作(絵:睡蓮 @ 国立西洋美術館)

68歳になったころからマネの目は徐々に見えなくなりました。
70歳を過ぎると目はますます悪くなり、更に不幸なことに妻のアリス、長男のジャンに先立たれてしまいます。
そんなモネを励まし、新たに睡蓮の絵を描くことを薦めたのが長年の友達だった政治家のクレマンソーでした。その時、既にモネは76歳でした。

医者から絵を描くことを止められても、手術をして少しでも見えるようになるとモネはまたすぐに絵筆をとりました。見えなくなっていく目で懸命に12枚の「睡蓮」の絵を完成させたとき、モネは83歳になっていました。それから3年のち、モネは86歳で静にこの世を去りました。
最後まで印象主義に忠実な画法を追求した印象派画家を代表する偉大な画家でした。

写真は昨年、帰省の際に上野の国立西洋美術館で観た「睡蓮」(1916年)です。
この美術館はルネッサンス期の作品が充実しており、それに見慣れた目にはモネの大胆で勢いのあるタッチが新しい時代の到来を告げていたことも、「粗い」「下書きに過ぎない」等の批判の対象となったことも納得できました。
それにしても、モネ晩年の睡蓮連作の中でも最高と評される作品が上野で420円で観れるというのは実に贅沢ですね^^。
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