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    1.ウィーン分離派(絵:ベートーヴェン・フリーズ)

    19世紀後半の1862年、ウィーン郊外に生まれたクリムトは早くから装飾家として名声を確立し、1893年にはウイーン大学の天井画の作成を依頼されます。
    しかし伝統的な寓話をあまりに急進的でセクシャルに表現した「哲学」「医学」「法学」の3部からなる作品は各方面から激しい非難を浴び、大講堂に展示されることはありませんでした。
    その後、1897年のウイーン分離派の創始者の一人となると1908年までそのメンバーとして活躍します。
    1902年に分離派のベートーヴェン展に出展したのが大作「ベートーヴェン・フリーズ」。下の写真はその一部です。ゴリラを中心に禍々しい死神みたいなお姉さんや官能的なお姉さんが描かれていますね。
    物語性のある壁画だそうです。ぜひウィーンで実物を見たいものです。
    クリムト
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    2.名声を確立(絵:接吻)

    「ベートーベン・フリーズ」の出展を機に1905年、クリムトはウィーン分離派を脱退します。
    翌1906年、オーストリア芸術家同盟を設立すると、尾形光琳を始めとする日本の琳派などから着想を得て、黄金色が特徴的なクリムト独自の煌びやかな絵画様式で名声を確立します。
    代表作は「接吻」。余計な説明は要りませんね^^。
    クリムト
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    3.晩年(絵:死と生)

    クリムトはマティスのフォーヴィズム、ロートレック、エゴンシーレなどの台頭により人気に陰りが見え始めると、金箔を用いない新たな色彩表現を模索します。
    1911年に制作が開始された「死と生」はローマ国際美術展で第一等を受賞しますが、1915年に母が亡くなるとその3年後の1918年に脳梗塞と肺炎によりその生涯を閉じました。
    クリムトは自画像を描いていません。「絵の題材として自分になど興味がない。私は他人に関心がある。とりわけ女性に。」と日記に書いたというクリムト。自身も性に奔放で、セクシャルな絵も沢山残した彼らしい言葉です。
    その傍らにはいつも死が佇んでいたのかもしれません。
    クリムト
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    1.マニエリスムの巨匠の誕生(絵:受胎告知)

    ダ・ヴィンチやミケランジェロに代表される盛期ルネッサンス直後に一世を風靡したマニエリスムを代表する画家、エル・グレコは1541年に現在のギリシャ領クレタ島に生まれました。
    ちなみに、「エル・グレコ」は本名ではなく、イタリア後で「ギリシャ人」を意味するニックネームです。

    当時クレタ島はヴェネツィア共和国の支配下にあったこともあり、26歳の時にヴェネツィアに、1570年にはローマにに移り住みます。
    エル・グレコは1576年にスペインに移住するまでのイタリア滞在期間にマニエリスムやヴェネツィアルネッサンスの手法を学んだと言われています。

    写真の絵は1597年から1600年に制作された作品です。
    エル・グレコらしいダイナミックで神秘的な「受胎告知」です。
    エル・グレコ
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    2.スペインへ(絵:トレド眺望)

    エル・グレコはイタリア滞在中はあまり評価されませんでした。
    それどころか、厳しい批判に晒されることもありました。その理由の一つは当時、ローマで神のように崇められていたミケランジェロの作品を酷評したからだと言われています。

    グレコは1576年に追われるようにスペインに移り住むと、トレドの街で偉大な画家としての道を歩み始めます。
    トレドを拠点として活動したグレコは知識人達の間で圧倒的な支持を得て、人気画家としての地位を不動のものにしました。

    写真はそのトレドを描いたものです。
    16世紀に描かれたものとは思えない、画家の内面が投影されたような迫力のある絵です。
    宗教画のイメージが強いグレコの印象的な風景画です。
    エル・グレコ
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    3.数百年の時を経て(絵:オルガス伯の埋葬)

    トレドで画家としての成功を手にしたグレコですが、1614年に亡くなると一気に忘れ去られます。
    余りに時代の先を行き過ぎていたのかもしれません。グレコが美術界で再び注目をされるまで250年余り待たなければいけませんでした。
    19世紀後半にピカソ等によって見いだされると、グレコの作品はピカソに続くキュビズムの画家達に大きな影響を与えています。

    俵屋宗達やフェルメールも死後に忘れられ数百年の時を経て光を当てられるという点が似ています。
    不思議なものです。

    グレコの最高傑作とも言われる「オルガス伯の埋葬」は縦460㍍、横360㍍という非常に大きな作品です。
    トレドにある教会が所蔵しています。いつか見に行きたいです!
    エル・グレコ
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    1.小さな酒樽(絵:ユディトの帰還)

    サンドロ・ボッティチェリは1445年頃、フィレンツェで生まれました。「ボッティチェリ」は「小さな酒樽」という意味のあだ名です。
    ボッティチェリは食いしん坊で予期でとても愉快な性格の持ち主でした。幼い頃から絵の才能を見せ、15歳になったころにフィリッポ・リッヒという画家の弟子になります。

    メディチ家のロレンツォもボッティチェリの才能と明るい性格に惹かれていた一人です。
    ロレンツォはボッティチェリはに次々に絵を頼みました。ロレンツォは後にミケランジェロの才能も見出しています。芸術に造詣が深かったのですね。

    ボッティチェリは肖像画のほかに聖書や神話の話を元に沢山の絵を描いています。
    1472年、ボッティチェリが描いたといわれる「ユディトの帰還」はイスラエルの少女ユディトが祖国を守るため勇敢に戦ったという聖書の話を描いた絵です。
    敵の大将の首を頭に乗せて運ぶ家来の様子とユディトの堂々とした態度が何とも印象的です^^。
    ボッティチェリ
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    おはなし名画「ボッティチェリと花の都フィレンツェ」の紹介記事

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    2.聖書と神話(絵:パラスとケンタウロス)

    「パラスとケンタウロス」(1482年頃)にはギリシャ神話に出てくる人物が描かれています。
    身体の半分が馬になっているケンタロウスの頭を平和のシンボルであるオリーブの冠を付けたパラスが押さえています。戦争を諫めているという話ですが、いじめっ子といじめられっ子にも見えてしまいます。
    先日の「ユディトの帰還」もそうですが、ボッティチェリの描く女性は凛とした強さがあって良いですね。

    この絵を描いた同じころ、ボッティチェリはローマに招かれてシスティーナ礼拝堂の壁に絵を描く仕事もしています。聖書の話を元に描かれた「モーゼの試練」などの壁画は歴史の流れを超えて今も残っています。

    こうして、ボッティチェリはルネッサンスの中心人物の一人として活動を続けました。
    ルネッサンスとはそれまでの芸術の流れを大きく変えようとする新しい運動です。
    およそ千年もの間、この世界の中心には神様がいると考えられており、芸術も神様のために作られていました。
    ルネッサンスの時代になると、人々は自分たちの持つ能力や愛の素晴らしさに気付き、自分たちのために絵を描いたり、彫刻を作ったりするようになったのです。
    そして、画家たちは自分たちが見たもの、感じたものを活き活きと描き始めました。
    ボッティチェリ
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    3.シモネッタ(絵:春_ヴィーナスの誕生)

    ボッティチェリの代表作の一つ「春」はフィレンツェを治めていたメディチ家の息子ジュリアーノの恋人シモネッタを描いたものです。心の優しいシモネッタは町中の誰からも愛されていました。美しいシモネッタのことを愛の女神「ヴィーナス」と呼ぶ人もいました。
    けれどもこの時、彼女は治る見込みのない重い病気に罹っていたのです。ボッティチェリは彼女の美しさを永遠に残すためにこの作品を描いたのです。春の王国を治めるヴィーナスにも、女神たちや大地の精にもシモネッタへの想いが込められています。
    ボッチチェリ

    しかし、この絵の完成を待たずにシモネッタは亡くなってしまいました。ボッティチェリと中の良かったジュリアーノもメディチ家の敵の人たちに殺されてしまいます。
    華やかだったフィレンツェの街も寂れ芸術の中心ももっと賑やかな都市へと流れていきました。
    フィレンツェにとどまったボッティチェリはシモネッタの思い出をもう一度描いてみたいと強く思うようになりました。
    ボッティチェリ
    「春」に描かれたのは大地の実りのなかにいる地上のヴィーナス、「ヴィーナスの誕生」に描かれたのは海の泡から生まれた天上のヴィーナスです。

    一生独身で通したボッティチェリは55歳を過ぎてからは殆ど絵を描いていません。1510年、寂れたフィレンツェの町で65歳の生涯を終えました。
    ボッティチェリのお墓は生まれた家の近くのオニサンティ教会にあります。
    ここには大好きだったシモネッタのお墓もあります。

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    1.もう一人の天才(彫刻:ダヴィデ像)

    ミケランジェロ・ブォナローティは1475年にイタリア中部の村カプレーゼで生まれました。お母さんのお乳があまり出なかったので石切り場で働く石工の奥さんの所に預けられて育ちました。
    大人になったミケランジェロはこんなことを語っています。
    「僕の彫刻の才能は小さいころからいつも石と遊んでいたから芽生えたんだと思う」

    14歳の頃、フィレンツェで最も強い力を持っていたメディチ家の主人ロレンツォに彫刻の才能を認められます。それからロレンツォが亡くなるまでの3年間、息子のように大切にされ、彫刻家としての勉強を重ねました。
    その後、ローマに出たミケランジェロにダヴィデ像の制作依頼という大きなチャンスが訪れます。26歳のときの事です。

    ダヴィデとは旧約聖書に描かれているイスラエルの王様で救世主キリストの祖先と言われています。
    戦いに強く人柄のやさしい、詩と音楽の才能に優れた理想的な王様だったそうです。ミケランジェロが3年間かけて完成させた「ダヴィデ像」(1501~1504年)からその雰囲気が伝わってきます。

    レオナルド・ダ・ヴィンチが亡くなった後、ルネッサンス運動を引っ張っていったのはミケランジェロでした。
    ミケランジェロ
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    おはなし名画「レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ」の紹介記事

    レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ (おはなし名画シリーズ)レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ (おはなし名画シリーズ)
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